|
by nsb01474 メモ
検索
タグ
農業用水(209)
樹木(98) 草花(67) 草花_コゴメハギ(43) 九頭龍(41) 空(31) 詩歌(28) 山岳(24) 昔々(23) 水田(14) 樹木_ケヤキ(11) 宮沢賢治(10) 浅川(10) 中島みゆき(8) 虫達(7) 樹木_ニセアカシア(7) 草花_メマツヨイグサ(6) 増殖(5) 南京縛り(4) カテゴリ
以前の記事
2012年 05月
2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 |
猿橋勝子「女性として科学者として」
(日本図書センター1999「人間の記録」シリーズ97) ![]() 「ユーリー先生を囲むお月見」より(初出1964) <ユーリー先生は1963年4月29日に満70歳の誕生日を迎えた。日本の天皇陛下と同じ月日に生れたというのが、先生のご自慢の一つである。先生は1934年、重水素の発見でノーベル化学賞を授与された。現在はラホヤにあるカリフォルニア大学分校の教授である。 (中略) 当日のユーリー邸の台所は、朝から準備に大わらわであった。夕方には山を背にした広いお庭にテーブルをしつらえた。一升ビンの日本酒、枝豆がそなえられた。月見だんごも用意された。フサフサした大きなススキが、南カリフォルニアらしいお月見風景をつくった。色とりどりのバラが、たそがれの中にかぐわしい香りをはなっていた。私たちがそろそろすきやきに満腹したころ、月はユーリー邸の庭の後の山からあらわれた。左手に見下す太平洋、右手に山、その上に顔を出したまるい月は、まるでユーリー邸に招かれたお客の一人のように、私たちにほほえみかけた。無邪気なまなざしで、これを仰ぎみているユーリー先生の横顔に、私は深い感動をおぼえた。前庭一面にさきみだれているゼラニウムの赤い花が、月の光に美しく映えていた。> 「フローレンス、ミラノを訪れて--四つのピエタ--」より(初出1977) <1976年9月、英国のエジンバラ市で開かれた国際海洋会議に出席したあと、私はかねてからの願いであったフローレンス(イタリア名フィレンツェ)を訪ねた。ローマからフローレンスまで、約3時間の汽車の旅は楽しかった。となりや、むかいの席にいたイタリア人やフランス人からの親切は、美しい田園風景とともに忘れられない。旅先でうける親切は、その旅の印象や効果を決定的にする場合が多い。 (中略) その後数年をへてミラノを訪れた。ミラノには有名な「最後の晩餐」がある。レオナルド・ダ・ビンチのこの絵をみること、ブレラ美術館やドウオモを訪ねることも旅の目的であった。しかし、ここで最も深い感銘をうけたのはカステルロ(城)の中の美術館のピエタとの出会いであった。ミケランジェロの最後の作品ともいえる未完の「ミラノ・ピエタ」は、人間のもつ悲しいさだめを訴えるかのように、私の胸をあつくした。ミケランジェロの思想の、昇華の軌跡をみた思いであった。 私がこの美術館の入口についたのは閉館数分前であった。管理人は私をみるや否や、「ピエタを見にきたのでしょう。」といって、私の手をとって美術館の奧に案内した。夕陽が斜めにさしこむ窓辺にピエタがあった。高さ約2メートルのピエタの、頭からかぶっていた白い布をはずし、「さあ、ゆっくりごらんなさい」という。説明書も持ってきてくれた。「もし、また見たければ、明日の朝おいでなさい。10時開館ですよ」といった。 翌朝、時間をさいて、10時に訪れた私に、別の管理人は「ピエタなんかありませんよ」とにべもなく答えた。私はそれでも館内に入ったが、昨日ピエタのあった所は立ち入り禁止となっていた。偉大な芸術家の高貴な作品に接する機会を与えてくれた前日の管理人の厚情に、私は心からの感謝をし、ミラノに別れをつげ、飛行場へいそいだ。> 「ベルリンを訪れて」より(初出1959) <1958年6月、ウィーンで開かれた「第4回世界婦人集会」に出席したのち、私は小笠原貞子さんとベルリンを訪れた。 (中略) 私は町を歩きながら、戦争のみじめさやおそろしさが、実感となってひしひしと胸に迫ってくるのをおぼえた。人間がえい智の限りをつくしてつくり上げた文化や芸術を、一瞬にして破壊したり、大事な人間を殺しあったりして、とどのつまりは、お互いに苦しみあう「人間のおろかさ」を考えずにはいられなかった。 (中略) 私たちは、いつでも、ひたすら「幸福」を求めている。しかし、「幸福」とは一体、何であろうか。恋愛や結婚も、たしかに人間の大きな喜びの一つであろう。けれども、結婚生活だけに多くの期待をかけていることが、如何にはかないものであり、たよりないものであるかは、戦争という一大変事が、私たちによく教えてくれた。 母としてのよろこび、妻としてのしあわせとは別に、他の人にはたよらないで婦人自らの力で生きるよろこびをつくりしかもそれが小さいながら、何らかの形で社会に貢献できるときに、はじめて本当の幸福がきずかれるのではなかろうか。 ロシアの生んだ偉大な数学者、ソーニャ・コバレフスカヤは、最初の結婚に失敗した後、いく度かはげしい恋に落ちた。しかし、いずれも彼女の心を満たすことはできなかった。美ぼうで金持で、しかも豊な才能にめぐまれたソーニャは、やがて自力で幸福をきずかねばならないと決心した。ソーニャの心をなぐさめたものは、ストックホルム大学の教授としての仕事であり、仕事への情熱がソーニャに生きる希望を与えた。 よき配偶者にめぐまれたマリー・キュリーは、母としての役目、妻としての愛情、そして科学者としてのよろこびのすべてを失うまいと、はげしい意志の力と情熱を発揮した。ゆたかな天分を十分いかして、幸福な人生を彼女自身の手でつくり上げたのである。 科学の世界は婦人を歓迎している。科学者は、人類のしあわせに、積極的につくす義務がある。科学者の責任は重いが一方、人類への貢献の大きいことを思えば、私は科学者になったことによろこびと誇りを感じないわけにはゆかない。東と西のベルリンを旅行しながら、私は、人間として、そして研究者としての責任をふかく考えさせられた。> ********************* 科学も芸術と同様に「感性」がもっとも重要なのではないだろうか? 同じ事象や対象を前にしても、きっとその人の「感性」によって「見えたり見えなかったり」する。猿橋さんの恩師の「科学者は単なる技術者にとどまってはいけない。」という言葉にはそういう意味があると思う。 「想定外だった。」 と発言した科学者や技術者の「感性」はどんなカタチをしていたのだろう。
| ||||||||||||||